インフレ抑制法とは?
2022年8月16日、アメリカで成立した「インフレ抑制法(歳出・歳入法)」、通称IRA(Inflation Reduction Act)法は過度なインフレ(物価の上昇)を抑制すると同時に、エネルギー安全保障や気候変動対策を迅速に進めることを目的とした法律です。約54兆円という巨額の予算からわかるように、バイデン政権が最も力を入れている政策の一つでもあります。
人為的な気候変動については世界中の科学者の総意にあたるIPCC(気候変動に関する政府間パネル)でも「疑う余地がない」とされていて、このまま気候変動が進めば大規模な自然災害や極端な気象現象の増加、さらに世界規模の食糧不足や飢饉の発生など、近い将来、これまでのような日常生活が送れなくなることが危惧されています。
そしてこのようなリスクを減らすためには、「再エネなどのクリーンエネルギーやEVへの移行による脱炭素が必要」ということが世界のコンセンサスであり、これまでは環境意識が高い欧州など一部の地域が先行して再エネの導入や自動車の排出規制、さらにEVの超急速充電インフラ整備を進めていました。一方でその頃の米国ではトランプ政権のもと、欧州などと比べると、それほど気候変動対策に力を入れていませんでした。
そして時が流れてトランプ政権からバイデン政権に交代し、先行する欧州を追うように気候変動対策の重要性が見直され、同法律が制定されました。同法律では太陽光や風力などの再エネ、そして再エネを有効活用するための蓄電池、EVの開発や生産への補助金として600億ドル(約8.8兆円)以上を投資。さらにその一環として全米50州の7.5万マイル(約12万km)にわたる州間高速道路網に超急速充電器を整備し、EVでも従来の内燃機関車と同等以上の利便性を確保した上で、2030年に新車に占めるEVのシェアを50%以上まで引き上げることを目指しています。
波紋を呼ぶ「メイドインアメリカ条項」
さて、問題はここからです。
米国でEVを購入するための実質的な補助金として、従来より「税額控除」という仕組みがありました。これはEVを新車で購入した場合、生産された国などにかかわらず最大7,500ドル(各メーカーの累計EV生産台数に応じて徐々に削減し、最終的にはゼロになる)を所得税から控除できるものです。
ところがインフレ抑制法では税額控除の要件が変更となり、累計生産台数の制限はなくなるものの、その代わりに以下のような新たな要件(一部抜粋)が追加されています。
主な要件 | 必須かどうか | 達成により加算される 税額控除額 |
---|---|---|
(1)価格が5.5万ドル(バンやSUV、ピックアップトラックは8万ドル)未満であること | ◯ | - |
(2)車両の最終組み立てが北米(米国、カナダ、メキシコ)で行われていること | ◯ | - |
(3)電池材料の重要鉱物のうち、調達価格の40%が自由貿易協定を結ぶ国で採掘あるいは精製されるか、北米でリサイクルされていること | どちらか必須 | 3,750ドル |
(4)電池用部品の50%が北米で製造されていること | 3,750ドル | |
表:インフレ抑制法で補助金(税額控除)の対象となる主な要件(控除額は個人の場合) |
このなかでも特に問題として挙げられているのが(2)~(4)で、製造や採掘を米国などに限定することから「メイドインアメリカ条項」とも呼ばれています。発端はEVの重要な部材を中国などの対立している国や地域に依存している現状を問題視したもので、国内産業の支援に加えて安全保障を強化する狙いがあると見られます。さらに(3)は2027年に80%、(4)は2029年に100%まで段階的に引き上げられる予定で、自動車メーカーは継続的な対応を迫られています。
ところで、現時点でこれらの要件を満たす車種はいくつあるのでしょうか。例えば以下の米国政府のサイトによると、2022年11月頭の時点で(2)の「北米で組み立てられている」という要件を満たすEVは2022年モデルで合計26車種、2023年モデルで9車種がリストアップされています。
【参考サイト】
Electric Vehicles with Final Assembly in North America(北米で最終組み立てされているEVの一覧)
このなかで日本メーカーとしては日産リーフの1車種のみが対象となり、現在北米で組み立てられていないマツダMX-30やホンダe、日産アリア、トヨタbZ4Xなどは対象外となっています。
さらにこの26車種のうち、(3)や(4)の要件となる「電池材料の重要鉱物の調達先」や「電池用部品の製造国」もクリアできる車種はさらに限られることになります。例えばテスラでは米国で販売している多くの車両で米国製の電池を使用しており、同社CEOのイーロン・マスク氏は「達成できることを期待している」と発言しています。ただし米国の大手自動車メーカーであるGMは「数年程度の移行期間が必要」とし、Fordも「柔軟な解釈を要請している」との報道もあり、2022年末の期限内に要件を達成できるかどうかは不透明な状況です。
各国政府や自動車メーカーの対応
インフレ抑制法の成立直後から多くの国や地域、さらに自動車メーカーなどが「自由貿易協定やWTO協定に違反している」などとして、解決に向けて様々な行動を起こしています。
例えば韓国は9月5日に米国政府に対して議論を促していることを公表、その後10月12日には米国政府の担当者が韓国を訪問して自動車や電池関連メーカーと面会。中国は9月22日に「必要に応じて自国の利益を守るために行動を取る」と宣言し、欧州も10月25日に米国との間で正式にタスクフォース(議論の場)を設けることを公表したほか、仏マクロン大統領や独ショルツ首相が報復措置を示唆した上で、要件の緩和を要求ています。
一方で自動車メーカーや電池メーカーレベルでは北米に生産拠点を移したり、拡大する動きが相次いでいます。8月下旬には韓国ヒョンデが米・ジョージア州の組立工場の建設を加速し、生産開始を2025年から2024年へ前倒しすることを発表。テスラはカリフォルニア州の電池生産ラインの拡張を申請し、独・ベルリン工場よりも米・テキサス工場での電池生産を優先すると発表しています。
日本メーカーについてもトヨタが3,250億円を投じて米・ノースカロライナ州に電池工場を建設、ホンダは米オハイオ州の既存工場でEVも生産できるように改修、さらに同州に韓国LGと合弁で電池工場を建設することを発表しています。
諸外国の政府がメイドインアメリカ条項に対して要件の緩和を要求する一方、現時点で米国で販売しているEVが少ない日本メーカーや政府は静観を続け、11月に入るまで大規模な行動は起こしていませんでした。この状況に対し、テスラ外部取締役の水野氏は10月18日にTwitterで「同盟国かつ今まで米国の雇用を増やしてきた日本は猛烈に抗議すべきと思うけど、静か」と指摘しています。
バイデンのインフレ対策法におけるEV補助金のMade in USA条項。不思議と日本の自動車業界も政府も静か。日本メーカーのバッテリーを積んでると,多分それだけで補助金の対象外れるでしょう。
同盟国かつ今まで米国の雇用を増やしてきた日本は猛烈に抗議すべきと思うけど、静か。 https://t.co/wjKxYq3nuH— HIRO MIZUNO (@hiromichimizuno) October 18, 2022
そしてこの指摘から2週間が過ぎた11月4日、ようやく日本政府(経産省・外務省)及びトヨタ自動車が米国政府に対し、日本車や日本製の電池などを税額控除の対象に含めるよう、正式に要請がありました。このタイミングでの要請は、リコールにより販売が停止していたbZ4Xの販売が再開したことも関係しているかもしれません。いずれにしても評価に値する行動であり、今後も要件の緩和などの結果が出るまで、継続的に対話を続けることが重要でしょう。
日本メーカーが取り組むべき課題
これまで米国の自動車といえば、ピックアップトラックなどの大型・大排気量の内燃機関車が活躍しているイメージでした。ところがFordの新型EVピックアップトラックであるF-150ライトニングは2021年末で20万台、対するシボレー シルバラードEVも2022年7月に15万台と、生産開始前にもかかわらず数年の生産分を受注。米国でもEVが受け入れられていることを示しています。
一方でマークラインズ株式会社が発表している2021年の米国の販売実績を見ると、合計約1,508万台のうち、日本メーカーが約580万台で4割近くを占めています。その米国は「2030年にEVシェア50%以上」という目標を掲げており、迅速にEVへの移行を進めています。米国での4割近くのシェアを失わないためにも、まずは魅力的なEVを作ることが最優先です。
さらにメイドインアメリカ条項に対する要件緩和を求めると同時に、要件に当てはまるように最終組み立て工場を、そして電池の製造や材料についても北米や自由貿易協定の締結国からの供給体制を整備する必要があります。例えばテスラではカナダやオーストラリアなどから電池材料の供給を増やして脱中国を進めていますが、国内メーカーも同様の取り組みが必要になるでしょう。
日本政府も2035年の「電動車100%」という目標を発表していますが、これは諸外国の基準であるEVのみ、またはEV+PHEV(プラグインハイブリッド車)やFCV(燃料電池車)とは異なり、内燃機関を搭載する通常のHV(ハイブリッド車)も含まれるもの。加えて未だに目標を達成するための具体的なロードマップや、EVのシェアも示されていません。国内・国外の両方に対して「日本もEVに本気だ!」ということをアピールするためにも、国として早急に具体的な目標を示す必要があるのではないでしょうか。
(文/八重さくら)