※記事中写真は Woods Motor Vehicle Companyのフェースブックページより引用。
1900年〜皇居のお堀に落ちたEV
東海大学の森本雅之元教授の「我が国で最初に走った電気自動車」という論文によると、日本を最初に走ったEVは、後に大正天皇に即位する皇太子のご成婚のお祝いに米国の日本人会から送られたウッズ社製の『Victoria』である。1900年(明治33年)のことだった。しかし、皇太子をお乗せする前に皇居のお堀に落ちたということだ。なんとも悲劇的な日本のEVの旗揚げであった。この事件は、EV化に後れを取る日本の原点かもしれない。
以下の話は上記の論文に依るものである。この論文がなければ、果たして日本のEVの原点をたどれたか怪しい。森本元教授に深く感謝したい。
米国のEVメーカーのクルマだった
さて、Victoria号のいろいろを調べてみよう。まずは製作会社である。製作会社は米国のWoods Motor Vehicle companyで、1899年にイリノイ州シカゴで設立された。
初代社長はフレデリック・ニコルズ。創設者は「電気自動車に関する最初の本」を書いたクリントン・エドガー・ウッズである。ちなみに1899年は、かのジャメ・コンタント号が25kWのモーターをツインで使い50kWで105km/hを出した年である。一方、Victoria号の出力はたった1.9kWのツインで3.8kWで、最高速度は29km/hであった。
Victoria号の上記以外の主要諸元は、2人乗りのcarriage-styleで、価格は$1900(当時)、モーターは上記のように2基、バッテリーは40セル、車重は1225kgで、意味不明だが4速の変速機を備えていた。おそらくモーターのトルク不足を変速機の減速機能を使って補ったのではないだろうか。2基のモーターは、なんとジャメ・コンタント号と同様にシートの下、フレーム下部に取り付けられていた。
carriage-styleというのは、現代でいうセダンだが、現代のそれとはまったく違う形をしていた。御者が先頭に乗って鞭を振り、乗客は後席に乗る馬車のカタチと考えたらよい。ただし、1906年の「ビクトリア・エレクトリック」の写真を見ると、ハンドルはバー式で後席の左側の外にあるので、御者らしき専任の運転手ではなく乗客の一人が運転したようだ。全体の印象は、馬車を改造したゴットリーフ・ダイムラーによる史上初のガソリン車に似ている。Victoria号もまさに「馬なし馬車」であった。
Victoria号にはハイブリッド仕様もあった
また、Woods Motor Vehicle company は1915年から1918年までいわゆるハイブリッド車(デュアルパワーモデル44クーペ)を生産していた。このハイブリッド方式は24km/hまではモーターで走り、それ以降はエンジンも加わり、最高速度は56km/hというものであった。エンジンは4気筒だった。
ハイブリッド車といえば、ポルシェ博士も開発している。上記の森本雅之元教授によれば、このハイブリッド車は正確には「ローナーポルシェミクステ」であって、単なるローナーポルシェではないということである。ローナーポルシェは前輪をインホイール・モーター(ハブモーター)で駆動するという革新的なEVなので、機会を見て紹介したい。
なおミクステは1900年のパリ万博に出展している。また、4WDの電気自動車もこの年のパリ万博に出展している(前述の森本雅之元教授の別の論文に依る)。名前は「Toujours Content (いつも幸せ) 」である。ジャメ・コンタント号(La Jamais contente 決して満足しない)に先に100km/hを出された悔しさからか、皮肉って付けた名前だろう。
皇太子への献上品
米国のWoods Motor Vehicle companyで製作されたVitoria号は、サンフランシスコの日本人会から後に大正天皇に即位される皇太子のご成婚祝いの品として献上された。サンフランシスコを出港したのは1900年8月3日のことであった。
ついでに記せば、日本人会は献上品としてピアノにするかVictoria号にするかで迷ったらしい。結局、Victoria号が選ばれたわけだが、電気で走る自動車=EVが当時としてはたいへんに価値があったと考えられる。やがて大正天皇になり日本国を背負う人となる皇太子への献上品には、最新の技術で作られ、産業・経済を発展させるEVがふさわしいと考えたのではないだろうか。
それから8年後の1908年には、米国の、ひいては世界のモータリゼーションを拓くT型フォードが発表され、その後の19年間で1500万台も販売され、米国を大きく発展させたのだから。ただし、T型フォードはエンジン車だったが…。
わが国初の充電スポットは青山御所だった
さて、日本の港に着いたVictoria号だが、さっそく問題に遭遇した。充電である。Victoria号は当然、直流電源でなければ充電できない。そこで東京電灯株式会社に充電を依頼するも、東京電灯は交流発電機しか所持せず、交流を直流に変換する技術もなかった。
いかに皇太子への献上品といえども、できないものはできなかった。ちなみに東京電灯は渋沢栄一等によって1886年に開業したのだが、なんとこのときは直流発電であった。そのときの直流発電機が残っていれば献上品を充電するという名誉に預かれたのだが、残念だった。代わって充電の栄誉に浴したのは高田商会だった。ここにジーメンス・シュケットル社製の直流発電機があった。青山御所でVictoria号を充電した。
悲劇となったテスト走行
充電の終わったVictoria号を最初にテストしたのは、欧米留学から戻ったばかりの廣田精一だった。彼は高田商会の電気部長であった。わが国初のEVの走行は無事に終わるかに見えたが、しかし中断されてしまう。麹町の三宅坂を下ったところのお堀に落ちてしまったのだ。その原因にはブレーキの整備不良や、老婆をよけようとして急ハンドルを切ったから、あるいは紀の国坂でブレーキのテスト中に交番に突っ込みそうになったので急ハンドルを切り…等、諸説ある。
皇太子曰く「EVはなんとも遅い乗り物だね」
さて、初走行は悲劇だったが、後日談がある。10日ほどして皇太子の前で恐る恐る走らせたのだ。ドライバーは汽車の優秀な機関主だった。これを見た皇太子は「自動車とはことのほか速度の遅きものである」と仰せられたのだった。EVに対するネガティブキャンペーンの「あんなクルマ(EV)は遅くて使い物にならない」という言説は、これから始まったわけはない。
念のために付け加えれば日本人最初のEVドライバーになった廣田精一は、のちに東京電機大やオーム社の設立に携わったという。優秀にして勇気ある人物が新しい世紀を開くのは、古今東西の哲理である。
日本はいつも二番手、三番手?
日本でEVが初走行した1年前に、ジャメ・コンタント号が100km/hをマークしている。ロンドンやパリ、サンフランシスコなど欧米の都市ではEVタクシーが我が物顔で走り、フランスでは自動車レースが始まっていた。また、1900年には初のモーターショーがニューヨーク市で開催され、パリ万博が開かれ、日本では初の自動公衆電話が開設された。
科学と技術をベースにした近代文明が欧米で花開き、人々は未来に大きな夢を抱けるようになっていった。時代と人々の蜜月が始まったのだった。
一方、我が世の春を謳歌していたEVに陰りが始まった。内燃機関自動車の登場と発展である。ヨーロッパでは1900年が、米国では1912年がターニングポイントで、EVは急速に勢いを失っていった。かくいう日本では1898年(明治31年)に、初めてエンジン自動車が輸入された。フランスのパナール・ルヴァソールである。最高速度は30km/hで、この年の2月6日に築地・上野間を走行した。1894年の世界発の自動車レースに優勝したのもパナール・ルヴァソール社製であった。現在の価格で3000万円だった。買い手が集まらず、フランスに持ち帰られたという。
日本でEVが本格的に輸入され、研究され、やがて開発、販売されるのは1911年まで待たなければならなかった。これについては機会を改めて述べたい。
今も昔も日本は二番手、三番手なのである。もっとも何を基準とするかだが、これは産業革命であり、それを起こした科学・技術の進展である。江戸時代まで日本には近代ヨーロッパ式の科学・技術の発展はなかったわけで、仕方ないことだが、これには徳川の鎖国政策の影響が大きい。だが、江戸時代の日本はもっとも平和で安定した国だったともいわれる。そして、現在、地球を危機に陥れているのは、皮肉にも近代の科学であり技術なのだ。
(文/舘内 端)