EV創世記【第4回】1899年に人類が初めて時速100km/h超えを達成したEV『ジャメ・コンタント』

自動車評論家にして電気自動車普及の市民団体「日本EVクラブ」創始者の舘内端氏が「なぜ、電気自動車なのか」を考える連載企画。今回は、人類が初めて時速100km/hの壁を超えた電気自動車『ジャメ・コンタント』のエピソードです。

EV創世記【第4回】1899年に人類が初めて時速100km/h超えを達成したEV『ジャメ・コンタント』

※冒頭写真はmichelinchallengedesignより引用。

2009年、フランクフルト・ショーの主役はEVだった

今年2021年のフランクフルト・モーターショーは中止となった。ヨーロッパ最大かつ世界の大きなモーターショーのひとつであるフランクフルト・モーターショーが中止になるのは、自動車界の大きな出来事である。

ドイツもまた自動車離れで観客が来ないのも中止の理由だが、ただ引っ込むだけではないのが日本とドイツの違いである。代わりにミュンヘンでモーターショーを開催したのだ。しかも、これまでのようなニューカーの展示が中心ではなく、モビリティー全体について広く多面的に考えようというコンセプトであった。さすが自動車を発明した国である。

モビリティの中心は自動車である。それは現在はもちろん、しばらくは変わらないだろう。しかし、今、その「自動車」そのものが大きく変わろうとしている。エンジン車からEVへの進展がその中心的な変化だが、そうした動力・エネルギー形態の変化だけではない。人やモノが動くこと、移動すること、その意味が変わろうとしている。

そうしたモビリティ大変化のリーダーはこれまでと同様に「我が国」だと、ドイツのメーカーが宣言したのが、今回のミュンヘン・モーターショーであった。彼らドイツの自動車メーカーは生産台数ではトヨタに負けても,自動車の哲学、思想におけるトップの座を、他国、とくに日本に決して譲りはしないのだ。

会場で撮影したアウディ e-tron のコンセプトカー。

そうした気配は、すでに2009年のフランクフルト・モーターショーに現れていた。すでにこの年に会場で衆目を集めていたのは電気自動車だった。日本では量産EVのアイミーブ(三菱自動車)が誕生した年であったが、このショーではまずフランス勢のプジョーがEVのコンセプトモデル「BB1」と、三菱i-MiEVをベースにした「iOn」を発表したのを皮切りに、ルノーは4モデルのEVを揃え、アウディはすでに「e-tron」を、VWは「E-up!」を、ヒュンダイは「i10」を、そしてメルセデス・ベンツをはじめとしてBMW、ヒュンダイ等、多くのメーカーがPHEVを発表し、来るべき電気時代に備えていたのだった。

また、このショーで特筆すべきは、インドのREVA社から小型EVのコンセプトカー「NXR」が出展されていたことだろう。REVA社はやがてマヒンドラREVAエレクトリック・ビークルズ社としてマヒンドラ社の傘下に入った。この新興EVメーカーから2013年に発表された「e20」は、REVA社の「NXR」の市販バージョンである。これはやがて雨後の筍のように新興メーカー製のEVが現れ、これまでの世界の自動車産業の構造を破壊する前触れであった。そして今、中国製の超小型EV「宏光」が超廉価(日本円で約47万円)で誕生し、ヨーロッパでも販売され始めている。

Reva NXR and Reva NXG

しかし、今回の考察のテーマはそうした「最新動向」ではない。2009年から数えて120年前に、すでに「EV新興メーカー」は生まれていたのだ。しかも彼らはEVで時速100km/hに挑み、見事に栄光をゲットしたのである。挑戦を厭わぬスピリットは、戦後のホンダがレースに挑戦し、勝利を重ね、躍進した姿に重なるようである。

『ジャメコンタント号』との出会い

2009年のフランクフルト・モーターショーの一角、ミシュランタイヤのブースに、会場に並ぶ新米のEVを見下すように飾られていた1台こそ、世界で最初に時速100kh/hを記録したレーシングEV「ジャメコンタント号」であった。新型EVを見て回って少しばかり疲れた私の目に、銀色に光った腰高の砲弾のようなルックスは実に新鮮であった。

しかし、これが自動車で、しかも電気で走るクルマだとその場で理解できた人は数少なかったに違いない。ショー会場の大方の観客の目には、巨大な砲弾あるいは魚雷に映ったかもしれない。

4本のタイヤの付いた台車に、砲弾あるいは魚雷が載せられていて、搭載した電池でモーターを回して走るのだ。全長は3800mm、全幅は1560mm、全高は1400mm、車重1450kgという巨大な砲弾が時速100km/hで走ってきたら……。

ちなみにこのサイズはほぼ現代の小型車サイズである。この走る電気砲弾「ジャメコンタント号」にさらに詳しく考察してみたい。
 

La Jamais contente

『La Jamais contente』、これが正式な名前である。フランス語で発音すると「ジャメ コントント」と聞こえる。ジャメの「メ」にアクセントが置かれ、コントントの「トン」は鼻にかかる。最後の「ト」は聞こえないくらい小さい。日本語表記は「ジャメコンタント」である。意味は「決して満足しない」だが、そのように名付けた意味は、私見だが後述しよう。

製作者兼ドライバーはベルギー人のCamille Jenatzyである。日本語の読みは「カミーユ・ジェナッツィ」。1868年生まれで、1913年に暴発したライフル銃の弾を受けて45歳で死亡した。ブリュッセル郊外のシェールベークで生まれで、父はコンタンティン・ジェナッツイ、母はオリーヌ。父はおもにタイヤを製造するゴム製造会社のオーナーであった。息子のカミーユは電気技師としての教育を受け、父の会社を継ぎ、「カンパニー・ジェネラル・デ・トランスポート・オートモビルズ」を設立、電気タクシーの製造を始める。

カミーユが時速100km/hの記録を出したころ、各地で自動車のスピード競争が行われていた。この競争に勝てば自社の自動車の人気が高まり、きっと売れ行きも良くなるとカミーユは考えたかもしれない。

しかもラウバート伯爵(後述)なる御仁が記録に挑み、時速92.78キロメートルをマークした頃、カミーユの記録といえばたった時速66.66キロメートルで、さらに挑むも伯爵の記録は超えられなかった。これは推測だが、自分の電気レースカーに「決して満足しない」なる名前を付けたほどの負けず嫌いのカミーユは、ラウバート伯爵の記録に、はらわたが煮えくり返ったに違いない(のではないか)。つまり、カミーユの負けず嫌いが「ジャメ・コンタント=決して満足しない」という名の由来だと想像できる。

100km/hに挑む記録会の始まり

伯爵があと少しで時速100km/hに届く記録を出し、負けず嫌いのカミーユが挑戦した競技会の発案者は、ラ・フランス自動車新聞社のディレクター、ポール・メヤン(Paul Meyan)であった。競技会の詳しい内容は不明だが、いろいろの資料を見ると、ブドウ畑を貫く未舗装の1本道を、砂埃を巻き上げて突っ走るという乱暴なものだったらしい。

ラウバート伯爵とカミーユがスピードを争った競技場は、パリから北へ50kmほど行ったアシュレス農業公園の一角であった。といってもスピード記録に使われたコースは、上記のように畑の中の農道だったとされている。おそらく葡萄の木に囲まれた農園を突っ切る一直線の未舗装路道がコースだったに違いない。アシュレス農業公園は、イヴリーヌ県にあった。近くにはベルサイユ宮殿があり、良質なワインで有名なブルゴーニュ地方の近くである。

競技のコースの距離は約2km。このうちの1kmの走行時間で速度を計った。スタートして1km走り、十分に加速したところで(おそらく)1km先からピストルの号砲が聞こえる。そこから1km走ったところで再びピストルが鳴り、その時間を計って速度を求めた(ようだ)。そうだとすれば時速100km/hで1km以上を走ったことになる。その間、モーターは焦げず、電池の電解液も沸騰しなかったということだ。ジャメコンタント号は(当時としては)かなりの性能のEVだったと想像できる。

カミーユ・ジェナッツィに「決して満足しない」と言わしめた競技会は、けっこう盛り上がっていたようだ。ジェナッツィが時速100km/hを記録する前年の1898年から記録が残る。

この年の12月8日にGaston de chassloup-Lautが時速63.15km/hを出した。これを知ったジェナッツイは翌1899年の1月17日に66.66km/hを出して、ぎりぎりでGastonを打ち破る。競技車両はCGA Dogcartと呼ばれる当時としては普通のEVであった。

michelinchallengedesignより引用。

そして、1899年4月29日(または5月1日とする説もある)の競技会で、改良を加えたジャメコンタント号は時速105.882km/h(65.792mph)を記録する。

当時の日本といえば、1899年(明治32年)は幕末の雄、勝海舟の没年である。その10年前の1889年にようやく大日本帝国憲法が発布され、東海道線が開通したばかりで蒸気漬けの日々を送っていたのだった。

ジャメコンタント号の構造や性能については次回にしっかり述べよう。さらにドライバーのジェナッツィは、1903年の第4回ゴードンベネット杯争奪レースにガソリンエンジン車のメルセデス・シックスティを駆って優勝する名レーサーだったといった話も付け加えておく。

米国のライト兄弟が人類史上、初めて空を飛んだのも1903年であった。そうした頃に、ジャメコンタント号は当時のガソリンエンジン車では到底不可能な時速100km/hでフランスの農場を走ったのだ。ジェナッツィとジャメコンタント号によって、陸空海で初めて人類が時速100km/hの壁を突き破った瞬間であった。

(文/舘内 端)

この記事のコメント(新着順)2件

  1. 機械による移動の創世記のチャレンジ。内燃機関も、外燃機関も電気自動車も競い合いながら、技術を磨いていた良き時代です。

    『決して諦めない』
    「…だから、ダメだ。」と、相手を否定することなく、自らを磨いていた証拠です。

    一番危険なのは、ひとつの方向に偏ること。
    失敗が全滅を意味するからです。
    内燃機関にベッタリも、EVに頼りきるのも、人類の存続にとって、マイナスだと思います。

    1. トヨタさんはEV一辺倒の流れを危惧してFCVや水素エンジンの開発も並行して行っています
      勿論ハイブリッドもその一部です。
      色々言われているトヨタ社長の発言ですが11月14日のNHKの番組の中で
      「脱炭素」が目的なのであって、その方法はひとつではないのだ
      と言っていたのが印象的でした。

      だからといって自社の販売店に充電器、特に急速を設置しないことの言い訳にはならないし、その回答がオプションですら急速対応しないPHVというのでは理解も得られないのではないでしょうかね?

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この記事の著者


					舘内 端

舘内 端

1947年群馬県生まれ。日本大学理工学部卒業。東大宇宙航空研究所勤務後、レーシングカーの設計に携わりF1のチーフエンジニアを務めるとともに、技術と文化の両面からクルマを論じることができる自動車評論家として活躍。1994年に日本EVクラブを設立(2015年に一般社団法人化)し、EVをはじめとしたエコカーの普及を図っている。1998年に環境大臣表彰を受ける。2009年東京~大阪555.6kmを自作のEVに乗り途中無充電で走行(ギネス認定)。2010年テストコースにて1000.3kmを同上のEVで途中無充電で走行(ギネス認定)。著書には『トヨタの危機』(宝島社)、『ついにやってきた!電気自動車時代』(学研新書)など多数。

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