※冒頭写真は1997年にリチウムイオン電池(円筒型)を搭載した電気自動車として世界で初めて販売された日産プレーリージョイEV。(出典:日産自動車公式サイト)
世界で最初のEV
前回記事で触れた、20世紀初頭に米国で起きたEV革命の話を掘り下げる前に、「世界で最初」のEVについて触れておきたい。それは1881年4月にフランスの発明家ギュスターヴ・トルヴェによって作られ、パリの道でテストされたEVだという説がある。但し書きには、独自の電源を備え、人を載せたEVだとされている。
トルヴェは、1880年にシーメンスが開発した小型の電気モーターを改良し、さらに開発した充電式の電池を使った。いわゆる二次電池だ。車体は三輪で、これは英国人のJames Sterley製作のものであった。そして、1881年4月19日にパリ中心部のヴァロア通りでテストされた。
電池の発明
EVは当然ながら電池に蓄えられた電気によって走る。EVの曙においても同じであった。初期には充電が効かない一次電池で走ったEVがあったが、繰り返し充電できなければ、やはり本来のEVとは言えないのではないだろうか。ということで、ここでは充電可能な二次電池の使用をもってEVの発明としたい。
さて、一次電池は1800年にイタリアの物理学者ボルタによって発明されたといわれるが、さらに古く2000年前にバクダッドで発明された「つぼ電池」が最初だとされている。1800年にイタリアの物理学者ボルタは銅板と亜鉛板と希硫酸で「ボルタ 電池」を発明した。さらに1836年には英国のダニエルが、ボルタ電池の欠点を改良した「ダニエル電池」 を発明、電池の実用化は進んでいった。
一次電池のEVには、たとえばスコットランドの発明家、ロバート・アンダーソンの電気キャレッジがある。1932年から1939年に使われたという。使い終わった電池の始末が気になる。
充電が可能な電池の発明
しかし、これらの電池は充電ができず1回しか使えない一次電池だった。充電ができる二次電池(蓄電池、充電池)の発明は、1859年にフランス人の物理学者ガストン・プランテの鉛蓄電池まで待たなければならなかった。その後1881年にカミイーユ・フォーレが、構造や電極の材質などを改良し、量産を可能とした。この電池は1895 年頃にかけて発展を遂げ、さまざまな分野で使われるようになった。二次電池の発明なくして、20世紀初頭の第一期EV爆発(米国)は起きなかった。
『EV創世期』で触れるEVのほとんどは、GMの「インパクト」も含めて、この鉛蓄電池を使ったものである。ちなみに1899年に初めて100km/hを超えた乗り物であるジャメ・コンタント号(EV)に使われたフランスの「FULMEN」電池も鉛蓄電池であった。
そしてリチウムイオン電池の発明へ
EV創世期も現代も、電池がEVの発展、普及のカギを握っている様子は変わらない。そして、現代のEVの高性能化は、鉛電池に代わるリチウムイオン電池の発明によるものである。発明者の一人である吉野彰氏は、その功績によりノーベル賞を授与された。その後、ソニーと日産がリチウムイオン電池の実用化に取り組み、1995年には日産がリチウムイオン電池を搭載した世界最初のEV、プレーリージョイEVを発表、1997年に発売を開始した。この件については機会を改めて述べよう。
鉛蓄電池の発明からすると、「1881年に発明された」上記の最初のEVは、複数回の充電が可能だったことで実用性を持った最初のEVという言い方には説得力がある。逆にガストン・プランテの二次電池の発明以前のEVは、再充電ができず、完全なEVとは言い切れないとも言える。世界最初のEVには諸説あるので、その一つということにしよう。
米国の参加
電池の発明に始まり、二次電池の発明、そしてモーターの発明と、19世紀のヨーロッパはEVの基礎である科学と技術において世界をリードしていた。やがて自動車において世界の覇者となる米国は、EVにおいてもまずはヨーロッパのEVとその技術を輸入し、さらに1888年にはAndrew Lawrence RikerがRiker Electric Motor Companyを設立、モーターの製造に乗り出し、20世紀初頭にEV大国となった。しかし、同時にエンジン車の技術もヨーロッパから輸入し、そして、それらを大量に生産することで、EVを駆逐し、自動車大国を築いたのだった。金に物を言わせてとはいわないが、必要な技術は買いあさり、旺盛なパイオニア精神と豊富な開発資金と、何よりも広大で人口の多い大陸というマーケットが、20世紀初頭の米国にEV黄金期をもたらしたのだった。
創造と破壊
米国は、自らEV産業を創造し、それを自ら破壊して世界に冠たるエンジン車産業を興した。まさに「創造的破壊こそ資本主義の進歩である」と喝破したシュンペーターの説を地で行くような進歩と拡大である。ただし、現在、その米国にも陰りが見えて半世紀が過ぎようとしている。そして、米国も含めて世界の自動車産業はエンジン車の産業を破壊し、EV産業の創造を目指している。乗り遅れたメーカーに明日はない。
最初の米国のEV
米国で作られた最初のEVは、1890~91年にアイオワ州デモインのウィリアム・モリソンが開発した6人乗りのワゴンだったといわれている。最高速は時速14マイル(23キロ)だったというから、この年代のEVとして標準的なものだったのではないだろうか。
また、1900年、つまり19世紀末には急速にEVの普及が進み、4192台が生産され、路上を走る自動車の28%がEVであった。そしてEV普及の背景には女性が好んだという理由があった。
女性に支持されたEV
それは、EVがエンジン車や蒸気自動車に比べて振動も臭いも音もなかったからである。また、当時のエンジン車にはセルモーターはなくクランク棒を回してエンジンを始動していたため、ひ弱な女性にはとても始動できなかった。ちなみにセルモーターを最初に装着したのはGMであった。さらに加えれば、女性に人気というのはEVが「軟弱だ」と見られ、(マッチョな)男性から嫌われるのを恐れて、フロントに使いもしないラジエターをわざわざ取り付けたEVもあったという。
広がる生活範囲
1900年代の初期に、後述するようにEVは自家用車として街中を走り、夜には淑女を乗せてパーティーに出かけ、女性のドライバーも現れるほどに普及していた。そのEVがエンジン車(T型フォード)に駆逐された理由の一つは、やはり20~40kmという航続距離の短さだったと推察される。
では、なぜ航続距離が短いといわれるようになったのだろうか。それは、都市における生活の変化ではなかったろうか。つまり、現在ほどではないとしても、都市の中心から郊外へと生活の範囲が広がったことが考えられる。つまり、人々の広がった行動範囲に対して当時のEVの航続距離は短いと思われたのだ。
かつて三菱i-MiEVや日産リーフが発売されると、「こんな航続距離が短いのでは使い物にならない」という強烈なネガティブキャンペーンが張られた。では「いったい何キロメートル走れば使い物になるのか」という質問には、しかし明確に答えられる人はいなかった。現在でも多分いないはずだ。なぜ?
しかし、米国の第一期EV黄金期には、これから触れるように、たかだか20~40kmほどの航続距離にもかかわらず、雨後のタケノコのようにさまざまなベンチャーからさまざまなEVが生まれ、普及し、生活で使われたのである。なぜ?
次回はいよいよ米国のEVゴールデンエイジの話題に突入である。20世紀初頭の米国にはEVがあふれ、強まる充電の要望に充電インフラの整備も始まり、電池交換システムまで登場したのであった。
(文/舘内 端)
※記事中写真はアメリカエネルギー省の『The History of the Electric Car』から引用。
今も昔も、電気自動車は常に航続距離のみならず既成概念との戦いですね。
そして既成概念=ネガティブキャンペーンとも取れますが。
それを打破できる人は決まって好奇心旺盛で計算能力の高い変人。それも知能指数の高い理工系の有名人ですよ!…クルマ以外のジャンルですが、電球を発明したエジソン、コンピュータの基本ソフト(OS)作成で有名になったビルゲイツなど、知能指数が高くひとつの物事に対しておく深く真剣に取り組んでいたから既成概念に打ち勝ち明日を乱すモノを作ってきたんです。もちろんその分最初は売れないと思ってきたモノでも後には世間に普及したんですよね!?
自身の知能指数はビルゲイツほどではないですが、それでも既成概念にとらわれず自身一日に必要な航続距離を算定したら100km以下なんでi-MiEV(M)に乗っても不満はなかったです。
この記事をとくキーワード:「わかり始めた My Revolution 明日を乱すことさ」←渡辺美里の名曲です。