EV創世記【第12回】アメリカの電気自動車 VS T型フォード〜EVは自動車なのか?

そもそも、なぜ世界にEVシフトが必要なのか。日本EVクラブ代表の舘内端氏がEVの原点を探求し考察する連載企画。今回は、自動車の始祖はそもそも電気自動車だったのではないかというポイントを考察します。

EV創世記【第12回】アメリカの電気自動車 VS T型フォード〜EVは自動車なのか?

※冒頭写真(1923 Ford Model T Street Rod T Bucket)はイメージです。

EVは自動車なのか?

国民車としてトヨタからパブリカが発売された1961年(昭和36年)、国民車はもう少し大きい方が良いと日産からサニーやトヨタからカローラが登場した1966年(昭和41年)。当時は自動車といえばフロントにエンジンがあり、クラッチと変速機とプロペラシャフトを介して後輪を駆動するFR車が「自動車」であった。

初代カローラ(トヨタ公式サイトより引用)

では、これらのパーツのほとんどを必要としないEVは「自動車」ではなかったことになる。しかし、歴史の時間軸で考えればEVはエンジン車に先駆けて登場している。EVとは似ても似つかないエンジン車こそ「自動車」として疑われるべき存在ではないのか。

といった疑問を抱きつつ1900年代のEVと最初の量産エンジン車であるT型フォードを比べてみよう。

自動車とはFF車である?

FRはシステム・パナール(後述)と呼ばれ、ベンツとダイムラーの2人によるガソリン車の発明からわずか5年後に生まれている。大衆車はFFに駆逐されたが、高級車ではいまだに使われている伝統的システムだ。

付け加えれば、FFシステムは大衆車にこそ必要であり、有効なシステムである。小さなボディで広い室内空間が得られ、高級な操縦安定性制御システムを使わずとも比較的安全に走行できるからである。しかもボディが軽いので燃費も良く経済的だ。

しかし、乗り心地の良さと秀逸なハンドリングが求められる高級車や、高速での操縦性安定性の高さが求められるスポーツモデルには向かない。ここはFRシステムの独壇場である。

とはいえ、自動車を大量生産し、売り上げを増大させ、世界一の自動車メーカーになることが企業活動のすべてのような企業ではFF車の大量生産は必須である。世界の量産大衆車は瞬く間にFF車になっていった。

日本では、1965年にスズキからスズライトSSが、また富士重工(現スバル)から1966年にスバル1000がFFで登場し、後に量産車をことごとくFFとしたホンダが初めてFFを採用した軽自動車のN360が1967年に、また1970年には日産がチェリーでFF車戦争に参戦した。。FRこそが「自動車」であるという自動車観はまたたくまに崩れ去った。

スバル ff1(スバル公式サイトより引用)

そして現在、世界の自動車生産台数のおよそ95%はFF車である。もっともこれは世界の年間生産台数を9660万台として、FR車はダイムラー・メルセデスの300万台、BMWの225万台のみとした場合である。乱暴な計算なので数字に多少の上下はあるとしても、「自動車とはFF車」のことなのである。

自動車設計・デザインの文法

FF車やAT車が普通になり、クラッチとプロペラシャフトは廃語辞典に載るようになったが、自動車は相変わらずエンジンで動くものであった。そして、自動車はエンジン、ラジエター、変速機、燃料タンク、排気管、触媒、マフラー、等のパーツの搭載を前提にパッケーシングされ、ボディがデザインされていた。

たとえば大きなラジエターがボンネットの下、前方にレイアウトされ、冷却風を取り入れるための入り口であるラジエターグリルが自動車の最前方に鎮座していた。そしてグリルはメーカーの意匠がデザインされた。たとえばBMWのキドニーグリルのようにである。そしてグリルをみればどこのメーカーの自動車なのか瞬時にわかった。グリルは「自動車」の顔であった。

以上は、FRであろうと、FFであろうと、エンジン車であれば従わなければならない自動車設計、デザインの方程式であり、文法であり、法律であった。

この法律からすれば、1900年代に雨後のタケノコのように登場したアメリカンEVにラジエターはなく、当然グリルもなく、自動車設計、デザインの文法は守られず、したがって「自動車」ではなかったことになる。

Driving Ford t models on the street in the greenfield village.(2018)

だが、当時のアメリカンEVは「自動車」のように走り、町の景色となり、生活を支え、人々の憩いの場であった。EVは「自動車」ではないかもしれないが、自動車としての機能はすべて持っていた。

EVは誕生と同時に現代の最先端の自動車であった

EVに目を転ずると1899年に人類史上初めて時速100キロメートルに到達した電気自動車=ジャメコンタント号(関連記事)は、2個のモーターで後輪をそれぞれ駆動した。FRでもFFでもなく、クラッチも、変速機も、プロペラシャフトも、もちろんラジエターもグリルもなかった。FRが「自動車」であった1960年代であれば、ジャメコンタント号に「自動車」の資格はなかったのか?

現代のEVが自動車の進化の最先端とすれば、すでにジャメコンタント号は123年前に最先端の「自動車」であったことになる。

ちなみに、ジャメコンタント号の駆動システムを見事に現代に継承した自動車があった。テスラモデルSである。ご存じのようにモデルSは、2つのモーターで4輪を駆動するツインモーター式でデビューした。そして、今では3つのモーターで4輪を駆動するトライモーターAWDにグレードアップしている。

テスラ モデルS Plaidのパワートレイン。

EV時代の復活

自動車の歴史を概観すると、世界で最初の動力付きの走行車は1830年頃に生まれた電気自動車であった。EVは19世紀末から20世紀初頭に興隆した後、勢いを失い、ガソリンエンジン車に駆逐されたのだが、2020年代に入るとEVは(日本を除いて)世界的な潮流となり、自動車の本流となりつつある。

だが、日本の事情は違う。武士に権力を奪われた朝廷が江戸末期に蘇った歴史でいえば、EVの復活は王政復古の明治維新に例えられるはずなのだが、日本の現実はいまだ改革(EV)派の薩長の勢いはなく、長く続いた武士の世の利権というぬるま湯にどっぷりと浸かって江戸幕府を権力の中心としたエンジン派の体制は微動だにしない。

さて、EVは果たして「自動車」なのか。それともエンジン車こそ保守本流の正統派の「自動車」なのか。1895年から1925年に米国で起きた嵐のようなEVの興隆とT型フォードを精査し、やがて世界を埋め尽くすであろうEVについて考えてみたい。

T型のボディスタイリングとランナバウト

ボディスタイリングは自動車のすべてを現す。その時代の自動車の立ち位置、役目=期待する使われ方、人々の想い等を現している。T型のボディは当時のEVとほぼ同等の大きさで、スタイリングもまたEVの主流であった「ランナバウト」である。

ランナバウトは「その辺を気楽に走り回る」が原義で、円形の交差点の名称にもなっているが、小型のボートやら、小型のオープンカーやらのボディを指すようになった。米国では20世紀初頭のEV、エンジン車の乗用車ボディとして人気があった。ほとんどが1列シートで2人乗りであった。また、シート後方に幌を用意したり、シートを2列にして4人乗りにしたりと、ランナバウトにはさまざまなボディスタイルが存在した。米国のビンテージ時代と呼ばれる1919年~30年に生産された乗用車の半数はランナバウトであった。

T型がランナバウトだったということは、当時の「自動車」の影響を大いに受けていたといってよいだろう。もちろん、当時の自動車といえばEVであった。T型はEVのコンバートであった といえそうである。

T型の誕生は1908年、量産開始は1909年であった。ちなみに世界初のガソリンエンジン車であるゴットリー・ダイムラーの1号車の誕生は1886年だから、T型の誕生=自動車の大量生産の開始は22年後ということになる。

T型の駆動レイアウト

T型はすでに現代でいうところのFR方式の駆動レイアウトを採用していた。システム・パナールと呼ばれるレイアウトで、フロントにエンジンを縦に置き、変速機を直結し、プロペラシャフトを介してデフレンシャルギアを回し、後輪を駆動するシステムで、1891年にルネ・パナールとエミール・ルヴァソールが設立したパナール・エ・ルヴァソール社の発明である。

Panhard et Levassor’s Daimler motor carriage, 1894(Wikipediaより引用)

付け加えれば、エンジンは故障しやすく修理が必要だったので、座席の下に置けず、ボンネットを開けてすぐに修理できるフロントに置きたかったのだ。また、振動と騒音にさいなまされていたので座席の下への搭載は避けたかった。こうしたことからシステム・パナールはたちまちエンジン車の主要な駆動レイアウトになった。

また、フロント・エンジン、リア・ドライブ=FRと呼ばれるこのレイアウトは、重量配分がフロント寄りで安定性が良く、後輪駆動なので駆動力の調整(アクセル)でカーブを自在に曲がれ、多くのスポーツカーもFRを採用した。

一方、モーターは静かで振動も少なく、発熱もあまりなかったのでラジエター等の冷却システムも不要で、故障もなく整備の必要も少なかったので、どこにでも配置できた。

操縦系統との干渉のない後輪駆動が好まれ、しかもツインモーターにすればディファレンシャル(差動装置)も不要だったから、後二輪をそれぞれのモーターで駆動するシステムが好まれた。

現代のEVはというと、フロントにモーターを置くFFレイアトのEVだけではなく、前後にモーターを置いて4輪を駆動する4WDレイアウトも出現している。しかし、EVの駆動系のレイアウトの可能性はまだまだある。これからはさまざまなレイアウトが出現するに違いない。そのためにはエンジン車からエンジンを外し、モーターに載せ替えるコンバート方式のEV生産からの脱却が必要だ。エンジンとモーターは、やはり違う原動機なのだから。

T型フォードのカットシャーシ。(Wikipediaより引用)

(文/舘内 端)

この記事のコメント(新着順)2件

  1. >日本では後に量産車をことごとくFFで登場させたホンダから、最初のFF軽自動車であったN360が1967年に登場すると、1969年に富士重工(現スバル)がff-1で続き、

    スバルff1は、1966年から1969年まで生産されたスバル1000 の後継車です。

    1. ted さま、コメント&ご指摘ありがとうございます。

      ご指摘の通りです。
      また、日本では、と語るのであれば、スズキのスズライトSSに言及しておくことも外せない、ですね。
      記事本文を修正いたしました。ありがとうございました。

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					舘内 端

舘内 端

1947年群馬県生まれ。日本大学理工学部卒業。東大宇宙航空研究所勤務後、レーシングカーの設計に携わりF1のチーフエンジニアを務めるとともに、技術と文化の両面からクルマを論じることができる自動車評論家として活躍。1994年に日本EVクラブを設立(2015年に一般社団法人化)し、EVをはじめとしたエコカーの普及を図っている。1998年に環境大臣表彰を受ける。2009年東京~大阪555.6kmを自作のEVに乗り途中無充電で走行(ギネス認定)。2010年テストコースにて1000.3kmを同上のEVで途中無充電で走行(ギネス認定)。著書には『トヨタの危機』(宝島社)、『ついにやってきた!電気自動車時代』(学研新書)など多数。

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